たとえ多数決に勝てなくとも、普遍性の底から鈍く光るものをつかまえることはできる、とわかったときは、本当にうれしかった。
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2021_1218
自信というのは、勇気を出して自ら選び取るものなのではないか。
「自分を信じる」というのを、この歳で生まれてはじめて一生懸命やってみようかと思う。今まで、自分を疑うことばかり得手だったので。
2021_1216
小さなことをその言葉尻まで忘れず、いつまでも未練がましいのも、ボヤボヤしておかしなことに巻き込まれてしまう隙があるのも、「社会人」として、ながらく自分の中で忌まわしいことであった。
2021_1204
単著校了から今日で1年。
その時は、「《何者か》になる」など、資本主義がこの世のすべてをマネタイズするための常套句だ、わたしは「書き手」になんてならへんし書くために生きるなどまっぴらだ、と決め込んでいたが、刊行後、思いもしないほどの反響、お叱り、お褒めの言葉をいただくうちに考えが変わってきた。
この名前は「文筆家」にあげよう。具合がわるくなったら他の名前で生きたらいいのだし、本名は別にあるのだし。
「文筆家」として、自分に出来る限りのことをやっていこう。
そういう決心がついた1年だった。
2021_1015
個人的には、ハイコンテクストな表現にどうしても惹かれてしまうところがあるんだけども、もうそういうのじゃダメなんだ、というのが自分の中で決定的になったのは、東京オリンピックの開会式・閉会式を見たときだったように思う。それ以降、普遍性こそが自分の表現において何よりも優先されるべきことになった。
2021_0104
「原稿少しは書けた?」「字数的には半分いって、とりあえずジャンプ台に立てたって感じ」「じゃああとは飛ぶだけだ」「そう」「K点超えてね」「K点超えたいね」「K点の“K”って語源何か知ってる?」「知らない」「えっとね、“危険”」
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